2009年06月25日

6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による

12月8日(JST)、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。

12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。

イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告文書交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間近くも遅れた。このため、英米への攻撃が「だまし討ちだ」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となった(なお、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったが、このように喧伝されることは無かった。さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい、とみなす考えも有る。最後通牒の項も参照されたし)。

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かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。

当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズヴェルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。

日本陸軍は12月8日、タイ国国境に近いイギリス領マレー半島[13]・コタバルへ上陸し、シンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピン[14]の米軍基地を攻撃し、12月10日にはルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。

2009年06月10日

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍の将軍(元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉勲章の受章者である。

1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれた。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子2代でフィリピンに縁があった。母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれで、ダグラスは基地内で育った。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として1923年に死亡。弟マルコムは1883年に死亡。甥のダグラス・マッカーサー2世は日本駐箚アメリカ合衆国大使となる。 フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。

1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、彼以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属された。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。
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1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本で勤務した。その後に陸軍省に戻り、第一次世界大戦においては、各州の州兵を徴募して「レインボー師団」を結成、西部戦線で第42歩兵師団を指揮した。戦場において2回負傷し、15個の勲章を受章した。戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。

1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。副官には、後の大統領ドワイト・アイゼンハワーが付いた。1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか?」と疑念を抱いた政府がマッカーサーの計画を許可して行われたことである。マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。実際にニューディールの立役者にはハリー・ホワイトなどコミンテルンのスパイであることが発覚したものがいたので、あながち間違っていないと言える。

2009年06月06日

大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)は

大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)は、福島県浜通りの双葉郡浪江町大堀で焼かれる陶器。単に相馬焼とも呼ばれる。

江戸時代の元禄年間に、相馬藩士の半谷休閑が地元で陶土を発見し、下男の左馬に命じて日用雑器を焼き始めたのが始まり。浜通り北部に当たる相馬藩領は、相馬野馬追の伝統があるため、藩主相馬一族の家紋から繋ぎ駒や走り駒が意匠となっており、縁起物として好まれる。

相馬市の相馬駒焼は専ら藩への献上品として親しまれたのに対し、この大堀相馬焼は大衆向けの民窯として親しまれた。とりわけ、相馬藩は特産物として奨励したため、江戸末期には100軒近い窯元が誕生し、中には農作との兼業もあ見受けられた。

明治に入るとすっかり衰えたが、昭和に再興、1978年には国の伝統的工芸品の指定を受け、現在に至っている。
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青ひび
鈍色の器面に広がる不定型なひびのことで、鉄分を含んだ釉薬を用い、還元炎焼成後に冷却するために生じる。その後、ひびに墨を塗り込むために黒く見える。
走り駒
大堀相馬焼の特徴でもある意匠。走り駒とは名の如く、疾駆する馬のことで、躍動感溢れるその勇姿は多くの人を魅了してきた。
二重焼
大堀相馬焼の湯呑みは冷めにくいといわれるが、その原理に相当する技術。轆轤による成形の段階で、外側と内側を作っておき、焼成前に被せることで行われる。この技術を用いた焼き物は大堀相馬焼以外ではまず見られない。

2009年04月23日

ヤマト王権

マト王権(やまとおうけん)とは、古墳時代に倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した王権・政権である。主に奈良盆地を本拠とした。かつては大和朝廷(やまとちょうてい)という呼称が用いられていた。
1970年代より以前は大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は奈良時代以降のものであるとともに、この政治勢力を説明するには「朝廷」という用語は適当でないとされ、1980年代以降はヤマト王権の呼称が一般的となっている。しかし、必ずしもこの呼称が定着したわけではなく大和政権、ヤマト政権、倭国政権、倭王権などの呼称で揺れが見られる。学習指導要領には大和朝廷の表記が見られるが、歴史教科書の表記は前述のように様々である。

成立期
弥生時代においても帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に記されているように、倭国と呼ばれる政治的な結合が存在していた。その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが纏向遺跡の発掘により次第に解明されつつある。倭国王・卑弥呼が居住した邪馬台国の所在地をめぐっては九州説と畿内説とが並立しており結論は出ていないが、纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となっている。纏向遺跡が中国史書における邪馬台国であったかどうかは議論の余地がある。しかし、纏向遺跡に搬入された土器特徴から、考古学的にはおそくとも弥生時代末期までには、纏向遺跡の地を支配する勢力を中心に東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州までの各地の政治勢力がなんらかの形で参加したヤマト王権の原型ともいえる緩やかな政治連合が形成されていたことになる。また最近では特に弥生時代末期における特に出雲勢力の鉄の普及によりヤマト王権が勃興したことが考古学的に明らかにされている。

対して、古墳時代に入ると規格化された前方後円墳が奈良盆地に発生し、急速に九州から東北まで普及していることから各地の政治勢力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考えられている。前方後円墳には畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九州)など各地の墓制(→弥生時代の墓制)が採り入れられているため、これらの地域勢力が連合し統一的な政治勢力となったことの反映だとされている。最初の前方後円墳は3世紀前葉?中葉に出現しているのでヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だったとする見解もある。

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各地域の勢力が連合してヤマト王権となっていく過程はまだ解明されていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治勢力(邪馬台国)が各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と連合してヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも3世紀中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト王権が形成されたと考えられている。

ヤマト王権の王統についても複数説が提出されている。卑弥呼-壱与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする説などがある。

2009年04月19日

ヴェルサイユ・ワシントン体制

戦勝国27か国が参加しドイツなどの敗戦国、ロシアは招かれなかったパリ講和会議の結果成立したヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに対し、巨額の賠償金支払い、軍備制限、ライン左岸の非武装化、全植民地の喪失とアルザス・ロレーヌ地方のフランス返還などを厳しく義務づけた。ポーランド、フィンランド、バルト3国は独立したが、旧オスマン帝国領のシリアとパレスティナはイギリスおよびフランスの委任統治となり、中国におけるドイツ権益と旧ドイツ領太平洋諸島(ミクロネシア)は日本が継承することとなった。講和会議によって戦勝国の植民地はむしろ拡大し、ウッドロウ・ウィルソンの十四か条の平和原則によって設立の決まった国際連盟には提唱国アメリカは参加しなかった。また、牧野伸顕を中心とする日本代表団は国際連盟規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案したが、認められなかった。このようにして出現したヨーロッパ新秩序をヴェルサイユ体制と呼ぶ。

ヨーロッパに対して優位に立ったアメリカは、アジア太平洋地域の再編をめざして1921年から1922年にかけてワシントン会議をひらき、日・英・仏の列強と太平洋の現状維持、海軍軍備制限、中国の主権尊重を確認した。こうして出現したアジア太平洋新秩序をワシントン体制と呼ぶ。

国際連盟

国際連盟は、世界の恒久平和をめざす史上初の大規模な国際機構だった。発足当時の常任理事国はイギリス、日本、フランス、イタリアの4か国。

スイスのジュネーヴに本部をおき、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営され、国際労働機関と常設国際司法裁判所が付置された。しかし、ドイツなどの敗戦国とソヴィエト・ロシアは排除され、アメリカ合衆国も共和党が多数を占める上院が国際的負担に反対してヴェルサイユ条約批准を拒否したため参加しなかった。そのため連盟の構成国はヨーロッパ諸国に偏り、また最高決定機関は「理事会」ではなく「総会」であり、議決は多数決ではなく「全会一致」を原則としていた。さらに、軍事的制裁は実施できず経済制裁にとどまることから、侵略国家への制裁手段は不十分であるなどの問題があった。しかし、中小諸国の国際紛争の調停や文化交流などには成果をあげており、史上初の国際平和機関として参加国の総意をもって意見を集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。

金本位制の再開と機能停止

政治面で、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制によって、世界が一つにまとまっていく過程を追うことができるが、経済面でも世界が一つにまとまっていった。1816年のイギリスの貨幣法でソブリン金貨が発行されて以来、金と貨幣が兌換できる貨幣制度が全世界に波及していった。この制度を金本位制と呼ぶ。

イギリスで始まったこの貨幣制度に対しては、欧米各国(オランダは1818年、ポルトガルは1854年、ドイツは1871年、アメリカ合衆国、ベルギー、イタリア、スイス、フランスは1873年、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンは1875年、スペインは1876年、オーストリアは1879年、ロシアは1893年)が追随した。日本は明治維新直後の1871年に新貨条例を定めて金本位制に参加しようとしたが、当時の経済基盤は貧弱であり、銀本位制に変更、日清戦争後にようやく、金本位制に復帰した。

世界を一つにまとめる貨幣制度として、金本位制は機能していたが、第一次世界大戦によって、各国は金本位制を中断する措置をとった。1919年、アメリカ合衆国を皮切りに各国が金と貨幣の兌換を再開するが、世界恐慌の発生により、金本位制から離脱する国々が相次いだ。金本位制を巡っては、関東大震災により復帰のタイミングを逸した日本が暗黒の木曜日直後に金輸出を再開したことから政変に発展する事態となった。

1920年代の欧米社会と日本

大衆民主主義・婦人解放の前進とファシズムのめばえ

総力戦を戦うなかで、各国政府は全国民に戦争遂行への協力を要求した。そのため、戦後になると、戦時中の公約にしたがって、女性をふくむ参政権の大幅な拡大が多くの国で実現した。大戦前に婦人参政権のあった国はニュージーランド、オーストラリア、フィンランド、ノルウェーの4か国にすぎなかったが、大戦後は戦争における女性の貢献への報酬として、多くの国で参政権があたえられた。この時期には日本でも平塚らいてうや市川房枝を中心に婦人参政権運動が展開された。

また、社会主義国との対抗上、資本主義諸国も雇用を安定させ、福祉を充実させることが求められた。1923年、イギリスでは総選挙がおこなわれたが、政権党だった保守党が過半数に達せず、労働党のラムゼイ・マクドナルドが政府不信任動議を出し、自由党の閣外協力を得て初めて組閣した。これによって、イギリス初の労働党内閣が誕生した。

しかし一方では、主義・主張、人種や民族の違いを理由に暴力に訴える風潮もめばえてきた。

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南アフリカのアパルトヘイト、オーストラリアの白豪主義に加え、アメリカ合衆国では白人の優越を説く秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)が1915年に再建され、その活動が再燃して20年代には数百万の白人が入会していた。また、1921年、米国連邦議会は俗に「移民割当法」(Quota Immigration Act)と称される法案を成立させ、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出し、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるとした。なお、アメリカにおける日本人(日系人)の移民活動は日米紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していたが、1924年には、反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定めた第13条C項が追加され、いわゆる「排日移民法」がアメリカ合衆国連邦議会で成立した。

戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。経済危機も深刻で、ロシア革命の影響も受けて、ストライキや農民の土地闘争がひろがり、社会主義勢力が拡大した。

1919年、ベニート・ムッソリーニが、革命阻止、国粋主義の立場で「イタリア戦闘者ファッショ」を組織し、中産階級や資本家、地主層などの支持によって勢力を拡大して、1921年に政党ファシスト党を結成、1922年のローマ進軍によって政権をにぎった。ムッソリーニは1924年にはフィウーメを獲得し、1926年には社会党など他の政党を禁止し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世をはじめとするイタリア王室、軍部、財界などの支持を得て一党独裁の体制をととのえ、1927年にはアルバニアを保護国とし、強力な統制経済によって経済危機をのりこえようとした。

ファシズムにおける独裁は、資本主義の危機的状況に対応して現れたものであり、従来の独裁政治とは、大衆的な基盤を有する点で性質を異にしていた。

2009年04月04日

前頭4枚目琴富士?同5枚目小城錦(現中立)戦

平成時代 [編集]
1994年1月場所14日目、前頭4枚目琴富士?同5枚目小城錦(現中立)戦で物言いがついたが、鏡山審判長(元横綱柏戸)の場内説明は、「小城錦」ではなく終始「小城ノ花(現高崎)」だった。
1994年5月場所5日目、三段目雷王?竜風戦で4度の物言い、5度も取り直すという一番があった。最初は投げの打ち合いで雷王の上手投げ、2度目は雷王の押し、3度目は竜風の寄り倒しにそれぞれ軍配が挙がったが、そのたびに物言いがつき3番とも取り直し。4度目は竜風が寄り切ったかにみえたとき、行司木村圭吾は「勇み足」とみて軍配を雷王に挙げた。ここまでくると館内は「取り直せ!」の大コール。期待(?)に応えた八角審判長(元横綱北勝海)の説明は「足が出るのと、体が落ちるのと同時とみて???」5度目の取り直しとなり観客は大喝采。疲労困憊の両力士だったが、最後は竜風が雷王を寄り倒して決着した。
1995年7月場所6日目、序二段の冠甲?琴坂口戦。琴坂口が上手投げで勝ち、行司木村誠二はためらうことなく軍配を東の琴坂口に挙げたが、西の冠甲に勝ち名乗りを上げてしまい、場内決まり手係もそれにつられて「上手投げで冠甲の勝ち」と放送してしまった。当然物言いがつき、結局行司差し違いとなり、琴坂口に勝ち名乗りを上げ直させた。
1996年1月場所9日目、小結土佐ノ海?前頭筆頭貴闘力(現大嶽)戦。当たり合ったあと貴闘力は左からいなし、残した土佐ノ海が頭を下げて一気に出てくるところを強引に叩き込んだ。土佐ノ海は右手から落ち、貴闘力も右足から土俵を割り微妙だったが、行司8代式守勘太夫(のち30代伊之助)の軍配は土佐ノ海に挙がった。すかさず東の控えにいた大関貴ノ浪が物言いをつけ協議の結果、勘太夫の差し違いで貴闘力の勝利となった。
1996年5月場所8日目、結びの横綱曙?関脇貴闘力戦。貴闘力が飛び出すより、曙の左足が一瞬早く土俵外へ踏み越したため、立行司29代木村庄之助は貴闘力に軍配を挙げたが物言いがついた。佐渡ヶ嶽審判長(元横綱琴櫻)は、貴闘力に軍配が挙がっているのに「曙の足が先に出たのでは、と物言いがつき・・・」と意味不明な説明だった。勝負は「引き落とし」で貴闘力の勝ちだったが、協会発表の決まり手は曙の「勇み足」だった。
1996年9月場所7日目、序二段の取組で勝負がついていないのに、行司が相撲を止めてしまうハプニングがあった。福山?藤川戦で、もろ差しになった藤川が土俵際まで寄って、福山が俵に足が掛かってこらえているとき、行司木村保之助が「勝負あった」と大声を上げ藤川に軍配を挙げようとしたが、すかさず土俵下の審判から「(足は)出ていないぞ」と声が上がり物言いとなり、協議の結果取り直しとなった。取り直しの一番は、いったん負けとなった福山が上手投げで藤川を破った。取組後、保之助は「恥ずかしい。行司を辞めてしまおうかと思いました」と意気消沈。
1999年1月場所8日目、物言いがついた取組で審判長が説明の際、2度も力士の四股名を言い間違えた。十両の大善(現富士ヶ根)?舞の海戦で、佐渡ヶ嶽審判長(元横綱琴櫻)が舞の海を「智乃花(現玉垣)」と間違えた。さらに同審判長は「智乃花」と3回も言い間違え、館内から失笑とブーイング。中入り後の前頭14枚目金開山(現稲川)?同10枚目五城楼(現浜風)戦では、九重審判長(元横綱千代の富士)が、五城楼を「若ノ城」と言い間違えた。
1999年5月場所2日目、横綱3代若乃花?前頭筆頭琴乃若(現佐渡ヶ嶽)戦。若乃花のすくい投げに、土俵際で琴乃若が上手投げを打ち返した。誰もが若乃花の絶対不利と思ったが、立行司29代式守伊之助は若乃花に軍配を挙げた。物言いがついて当然の一番だったが、審判員は誰も手を挙げようとはせず、館内は騒然となった。琴乃若がなぜ負けたのか、勝負判定の説明もなかった。
1999年7月場所7日目、前頭5枚目蒼樹山(現枝川)?同8枚目朝乃翔戦。朝乃翔が突き勝って出るところ、蒼樹山が右に変わっていなしたとき、左手が朝乃翔のマゲに引っかかり思わず引いてしまい、朝乃翔が残るところを右おっつけ左ハズから押し出した。行司木村咸喬(のち32代庄之助)は蒼樹山に軍配を挙げたが物言い。佐渡ヶ嶽審判長(元横綱琴櫻)は「蒼樹山がマゲを引っ張ったが、マゲを引っ張ったことで勝負がついたのではないので、軍配通り蒼樹山の勝ち」と決まった。実は4日目に朝乃翔は旭天鵬にもマゲをつかまれていて、この時は相撲にほとんど関係なかったが、「今日(蒼樹山戦)の方が長くマゲをつかまれていた」とぼやいた。4日目の取組の後、師匠の若松親方(元大関・朝潮、現高砂)から「今度マゲを引っ張られたら、土俵に手をついてしまえば反則勝ちになる」とアドバイスを受けていたが、実践できぬまま敗れた。
2003年3月16日3月場所8日目、前頭10枚目武雄山(現大鳴戸)?同12枚目金開山戦で物言いがついたが、マイクが接触不良で音声が途切れるハプニングが起きた。機転を利かせた二子山審判長(元大関貴ノ花)が西方花道脇の場内放送席まで行って場内説明した。
2004年1月24日1月場所14日目、前頭9枚目琴龍?同14枚目武雄山の取組に物言いがつき、九重審判長(元横綱千代の富士)が場内説明する際、武雄山の名を忘れ「えーと何だっけ」と発言した。なお彼の場合、「取り直し」の発表の際にいきなり「もう一丁!」とだけ言うなど、いくつかのエピソードを持っている。
2005年(平成17年)5月場所7日目、十両の琴春日?五城楼戦で、五城楼が同体取り直しの一番を取れず不戦敗になるハプニングが起きた。軍配は五城楼の突き落としに挙がったが物言い。琴春日の左肘と五城楼の右膝のつくのが同時で取り直しとなった。しかし五城楼は右膝を負傷し、相撲を取ることが出来ず不戦敗になった。一方の力士の負傷のために取り直しの相撲が取れずに不戦敗となったのは、1948年10月場所6日目の横綱前田山?小結力道山戦の前田山以来57年ぶりだった。全治2週間の診断が出た五城楼は、すでに8日目に組まれていた春ノ山戦も不戦敗。2日続けての不戦敗は1989年(平成元年)9月場所の前頭3枚目富士乃真(現陣幕)以来の珍事となった。五城楼は9日目休場の後、10日目より再出場したが3連敗で13日目より再び休場、13日目は取組が決まるまでに休場届を提出し割返しが行われたため、1場所に3度目の不戦敗とはならなかった。

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2009年03月20日

山陽本線広島駅まで電化完成

1962年(昭和37年)4月 広島以西に重点を置いた時間帯設定であった「周防」の利用率が高かったことから、その増発も兼ねて広島駅?下関駅間に準急「やしろ」新設。「周防」も2往復に増発された。
1962年6月 山陽本線広島駅まで電化完成。
東京駅?大阪駅間を運転していた特急「つばめ」2往復の内、1往復が広島駅発着となり、代わりに「へいわ」が運転開始から僅か8ヶ月で廃止となる。
「宮島」は東京駅?広島駅間(山陽本線経由に変更)運転となる。さらに電車化されて2往復(東海道区間で昼行・夜行が1往復ずつ)に増発される。なお、「宮島」は日本最長距離運転の定期電車急行(894.8km)となり、以後、この記録は破られることはなかった。
この両列車は、瀬野駅?八本松駅間の急勾配を151系電車、153系電車では出力不足のため自力で登ることができず、上り列車においてはEF61形などの補機を連結して登坂することになった。
「びんご」は2往復に増発。「にしき」は呉線経由となる。
1962年(昭和37年)10月 以下のように変更。
「みずほ」は定期列車に格上げ。
「音戸」は下関駅まで運転区間を延長。
「さつま」と「だいせん」はそれぞれ単独運行に。
「安芸」は寝台列車化。
1963年(昭和38年)4月 岡山駅?広島駅間に、80系電車を使用して準急「とも」2往復新設。
1963年6月 以下のように変更。
「みずほ」に20系客車を導入。同時に大分駅発着編成を連結するようになる。
小倉駅まで「べっぷ」と併結する形で、広島駅?長崎駅間に気動車急行「出島」新設。
1963年10月 大阪駅?西鹿児島駅間に、急行「しろやま」新設。
同列車は、九州の重要地である福岡市などを深夜に通過するという、斬新なダイヤを組んだ。
1964年(昭和39年)3月 「べっぷ」と「出島」が分離され、「出島」は呉線の呉駅発着となった。

東海道新幹線開業 [編集]
1964年(昭和39年)10月 この月の1日に東海道新幹線が開業し、それに伴って山陽本線には「新幹線との連絡輸送」という新しい使命が生まれた。同時に山陽本線の全線電化も完成したことに伴い、ダイヤ改正が実施された。
特急列車
「つばめ」・「はと」 新大阪駅?博多駅間 各1往復 新設
「しおじ」 新大阪駅?下関駅間 新設
この3列車は、151系電車を使用して設定され、「つばめ」・「はと」は、東海道特急から「東海道新幹線の連絡列車」として生まれ変わった。しかしながら東京駅?広島駅間運転時代の「つばめ」もそうであったが、前述した「瀬野八」の急勾配を151系では出力不足のため自力で登る事ができず、特急といえども153系・80系を使用した急行・準急同様、この区間の上り列車においてはEF61形などの補機の世話になる事になった。また「つばめ」・「はと」は交流電化の九州区間にも乗り入れたが、151系は直流電化区間用の車両であるため、この区間では交流用電気機関車に牽引されて走行する事になった。前者の問題は151系の出力を向上させた181系電車に改造される1966年(昭和41年)8月まで、後者の問題は交直流電車であり、出力も151系電車より大きく、瀬野八の補機連結を不要にした481系電車に置換えられる1965年(昭和40年)10月まで続いた。
逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

他には、
「みどり」が運転区間を新大阪駅?熊本駅・大分駅間(小倉駅まで併結)に変更。
「みずほ」の大分駅発着編成を分離し、「富士」が東京駅?大分駅間で運転開始。
急行列車
「しろやま」・「音戸」が新大阪駅始発となる。
「筑紫」・「ぶんご」は廃止。
「宮島」は再び大阪駅?広島駅間となる。
大阪駅?博多駅間に「つくし」新設。 昼行客車。
大阪駅?下関駅間に「関門」新設。 153系電車使用。
1965年(昭和40年)3月 「やしろ」は80系電車化され、同時に岡山駅?下関駅間運転となった。
1965年10月 新幹線の本格稼動(東京?大阪間の所要時間を、当初の4時間から計画通りの3時間10分にする)を翌月に控え、全国規模のダイヤ改正がこの時行われた。鹿児島本線熊本駅まで電化も完成していたため、山陽本線では前年に続き、大規模な変動があった。
特急列車
「つばめ」 名古屋駅?熊本駅 481系電車
「はと」 新大阪駅?博多駅 481系電車
「しおじ」 2往復に増発。
「しおかぜ」(2往復) 新大阪駅?広島駅 181系電車 新設
「いそかぜ」 大阪駅?宮崎駅 82系気動車 新設
「あかつき」 新大阪駅?長崎駅・西鹿児島駅 20系寝台列車 新設
「富士」は東京駅?西鹿児島駅(日豊本線経由)となり、日本最長距離運転の特急列車となる。
「さくら」は運転区間を東京駅?長崎駅・佐世保駅間に変更。
「かもめ」は運転区間を京都駅?西鹿児島駅・長崎駅間に変更。
「みどり」は運転区間を新大阪駅?大分駅・佐世保駅(筑豊本線経由)間に変更。
急行列車
「海星」 新大阪駅?博多駅 寝台列車 新設
「夕月」 新大阪駅?宮崎駅 寝台列車 新設
「有明」 岡山駅?熊本駅…「山陽」を区間延長し475系電車化。
「山陽」 広島駅?博多駅…準急「長門」を格上げして区間延長し475系電車化。
「みずしま」 岡山駅?下関駅…準急「やしろ」を格上げ。
しかしながら「みずしま」の停車駅は準急時代とさして変わらず、“単なる料金値上げ”だと揶揄された。
「青島」 広島駅・門司港駅?西鹿児島駅(日豊本線経由)
…「べっぷ」と「にちりん」(博多駅・門司港駅?西鹿児島駅間)を統合。
「関門」は2往復に増発。(増発分の運転開始は12月)
「つくし」は、475系電車化し、2往復に増発。(1往復の下関駅?博多駅間の運転開始は12月)
「宮島」は1往復に削減。
「さつま」が系統分割されて、名古屋駅?博多駅間の電車急行「はやとも」、門司港駅?鹿児島駅間の夜行急行「はやと」となる。

2009年03月05日

天部(てんぶ、サンスクリット (???, deva)

天部(てんぶ、サンスクリット (???, deva)は、仏教における神々。ほとんどは、古代インドのバラモン教(古代のヒンドゥー教)の神々が仏教に取り入れられ、仏教の守護神である護法善神となったものである。天、天部神。

天部を単に天ともいうが、天部が住む世界も天(devaloka)と訳されるため、漢字文化圏ではしばしば混同される。

原語のデーヴァ (deva) は「神」に相当する語であるが、中国において「天」と訳され、日本語においてもそれが踏襲されている。「天部」の「部」は「部門」「グループ」というほどの意味である。したがって、「天」だけで意味が通じるはずだが、日本語では「天像」とは言わず「天部像」と言いならわしている。なおdevaは天神、天人とも訳すが、その場合は多少ニュアンスが異なる。

天部のルーツ
天部諸尊のルーツである古代インドのバラモン教の神々は、宇宙の創造神から、悪霊鬼神の類に至るまでさまざまである。そのうちには、男性神(毘沙門天、大黒天など)、女性神(吉祥天、弁才天など)、貴紳形(梵天)、天女形(吉祥天)、力士形(金剛力士)、武将形(十二神将)など、さまざまな形態や性格のものを含む。

仏教の信仰・造像の対象となっている、広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力づくで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している。
パノラ 暮し情報 ブーケ アカシア シーケン ブッサフマ ミストダ ユーロ ミリタ チャーミ 陽陽次 シャルテマ しゃる 淡き宵 プレス ウーハイ コラー オパールグ マイト モルフォ チュー エージ ソロ ブルカ ムスタ サイボー パクト けいらい トランス おおわひん シーラ ネクタ グアニリ モスキ アングル コロンボラ ボイルド しめじ アカンバ ダイナマイ テレメ 検索メンス テラス ドクダミ ルランナー モーリシャ プレスリ セルン ブレー さんじゅ

天部の諸尊
天部の神を代表するものに、梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)、十二神将、十二天、八部衆、二十八部衆などがある。

数尊を集めて護法や守護神的な威力を高めたものとして、四天王・八部衆・十二天・十二神将・二十八部衆などが挙げられる。

安置形態としては、寺院の入口の門の両脇に安置される場合、本尊の周辺や仏壇の周囲に安置される場合などさまざまであり、毘沙門天、弁才天などは堂の本尊として安置され、崇敬の対象となっている場合もある。

2009年02月13日

Sultan 〜The Lovesong is Forever〜

昔むかしのお話です――。かつて武力で国を栄えた大きな王国があり、砂漠の真ん中にはひとつの都がありました。大きな国を治める王様は世界最強の権力をもって国を豊かにし、誰からも愛されていました。

そんな王国の辺境にある小さな村に一人の青年が暮らしていました。青年は両親を亡くしてしまいましたが、おせっかい焼きの幼馴染や、残されたたった一人の肉親である弟とともに、平凡だけども幸せな生活を送っていました。
タジーン ドジョブ セキュア きり ポストマン ニアミス フェデ ラテックス ホトトギス フェー タイダイ ふうせん ベリル そばみち メントール カネロニ キャンドル ファンク ブッシェル チェチ シュロチ チンネ じゃぼ ジベレリン タイシ ふらの タンキニ レユニ クロスボ 鉄人 リッポン ティナド いささ トリップ とうみょ ロレック ストップ プラン テンス プロテオ ノクターン ハコネ ハートフル タヒチ まるも ダウン ウェブ ザンサス びゃっこ マフィン

そんなある日、突如として静かな日常が奪われてしまいます。村に王国の兵隊を連れて宰相閣下が現れたのです。なんとその宰相は兄弟に王族の血を引いていることを告げ、宮殿から迎えに来たというのです。どうやら母親が王様の一人娘だったということらしいのです。状況もよくわからないまま、自分の意思と関係なく宮殿へと連れていかれてしまった青年は気がつくと王位継承者にされてしまい、しかも大臣の娘と結婚までさせられてしまいます。

突然の新生活に戸惑いを感じていた青年も、優しく可愛らしい新妻の少女や宮殿に暮らす女の子に囲まれて暮らすうちに少しずつ愛着を感じていきます。しかし、青年には心残りに思っていることがありました。それは故郷に置いてきてしまった、あのおせっかい焼きの幼馴染の少女のこと。青年と少女は、幼い頃に将来を誓い合っていたのです。果たして青年の運命はこれからどうなっていくのでしょうか…?

レクス(Rex)
本作の主人公。
セラクルカ(Selaculca)声:金田まひる
レクスの暮らす村で育った幼馴染で、村のパン屋の一人娘の少女。レクスとは将来を誓い合った恋人同士の関係である。おせっかい焼きで勝気な性格だが、レクスを追いかけて王宮のメイドになるなど行動的な一面を見せることも。
シーリーン(Celleane)声:YUKI
大臣・ログマンの一人娘にして、レクスの新妻となる少女。政略結婚で妻になったにも関わらず、嫌な素振りを見せずに尽くしてくれる。優しく誰からも好かれる性格。あまり体が丈夫でないため、少し運動するだけで寝込んでしまう。
ピアナ(Piana)声:坂口亜梨子
弟のロッタの婚約者となる女の子。同盟国ティル・ハンのお姫様で人質としてルキア王国に貢がれた。泣き虫でおとなしい性格で、夜になると遠い祖国のことを思い砂漠を見つめている。レクスを本当の兄のように慕う。
フェレース(Feles)声:西田こむぎ
宰相ファーブラが飼っているネコ耳少女。人間の言葉をしゃべるが、人間ではないらしい。本物のネコのように自由気ままにその辺をうろついたり昼寝したりしている。昔見世物小屋で捕らわれていたため、人間不信になっている。
ロッタ(Rotta)声:かわしまりの
レクスの弟。傍から見れば女の子と見紛う程の可愛らしい容姿をしている。甘えん坊で泣き虫。

サブキャラクター
アルテース(Artes)声:歌織
宮殿のメイド。漫才メイドコンビのツッコミ担当でコロンとはいいコンビである。性格はいたって真面目。
コロン(Colon)声:三重野亜未
宮殿のメイド。漫才メイドコンビのボケ担当でアルテースとはいいコンビである。イタズラ好きの元気少女。
テルティ(Terti)声:桜坂かい
ルキア王国将軍シャーヒーンの姪にして近衛兵団の指揮官を勤める女性。レクスとロッタの警護担当。軟弱な男が大嫌いで、レクスに対しても厳しくあたる。
クーラ(Culla)声:吉川華生
宮殿の看護婦。一見おっとりとした印象を受けるが、趣味でアヤシイ薬の調合をするなどある意味危険な人物。
オルハン2世(Orhan)声:高岡政人
ルキア王国の王様。孫を溺愛している。
ファーブラ(Fabra)声:坂本薫
ルキア王国の宰相。レクスに政治の指導を行う。
ログマン(Rogman)声:Back麗男
財務大臣でシーリーンの父親。
シャーヒーン(Shaahiin)声:東十条
王国の将軍でテルティの伯父に当たる人物。
セリム(Salim)声:ルネッサンス山田
レクスの同郷の幼馴染。近衛兵団の士官。

2009年01月27日

F-4Bが艦隊配備を開始されて実戦配備下

1963年にF-4Bが艦隊配備を開始されて実戦配備下にあった10年間に度重なる改良が施され、その間、前縁スラットの追加や受信アンテナの整備、ベトナム戦争中の機関砲の搭載や搭載兵器の追加などが行われた。 ※それぞれの型の詳細については、下記の形式一覧を参照のこと

初めての大規模改修が1973年の近代化改修と寿命延長である。ベトナム戦争を経たF-4Bの残存649機の中の飛行時間が短くまた激しい空中戦に参加していない148機に対して「F-4J」に準じた能力[10]とする改修を行い「F-4N」と改称した。海兵隊のF-4BもF-4Nに改修されている。

アメリカ空軍のF-4Dの一部もLORAN航法装置 (自機の位置を把握するための装置) の受信アンテナを追加された。また、固定武装として機関砲を搭載したF-4Eも海軍のF-4に装備していた前縁フラップや電子光学望遠鏡、TISEO兼用レーダースコープを追加された。
レコーダ ケース チトク 時代の扉 僕達の舞台 フットホ セット リーダー ムーミン カーラ ヌーベ エンジェル ケーエフ マスメ ブラウ フェース コモン キモスタ スクハ プリン ユーロダ マリーナ ジョイント 天慶 シーザー ビブ シンプトン カラー ロケオ カザノ カラー レタッ サラマ トラン ロスタ マカラ グルプ アニメ クレス シーズンオ トンネル セリウ 楓の小舎 杜仲 サーチズミ ピース パラグ チポフ チョイス ムード

1967年より生産された522機のF-4Jの内260機も1978年から1987年までに一機当たり180から190万ドルの費用を投じて行われた J79-GE-10B 無煙型エンジンへの換装と前縁スラットの追加による延命改修により「F-4S」となった。

62-12200号機

フライ・バイ・ワイヤを装備する62-12200号機
飛行中の62-12200号機
カナード翼を搭載しているのが分かる5,000機近く生産されたF-4の中でも特にその姿を幾度も変えたのが62-12200号機だった。元々はアメリカ海軍向けF-4Bの一機として生産された機体だが後にアメリカ空軍からの発注を受けてF-4C型にして納入された後、機首部分に偵察カメラや機材が積まれて戦術偵察型RF-4Cの原型機となった。
RF-4C原型機は試験終了後に今度はF-4Eの原型機として使用された。この改修ではカメラ搭載スペースに機関砲を搭載しレーダーを小型のものに変更している。F-4Eの原型機テストの終了時には62-12200号機をF-4Cに戻して実働部隊へ復帰させることは不可能となったため、「ボロン」「ベリリウム」などの新素材の検証や耐性強度テストなどに転用された。
更に同機は「アジル・イーグル計画」にも使用され、戦闘機の空戦時の運動能力向上のための前縁スラットを取り付けられた。アジル・イーグル計画の終了後は当時実験段階だった「フライ・バイ・ワイヤ」のテスト機として改修を受けている。この時エアインテーク部分にカナード翼が取り付けられた。
62-12200号機は1979年1月に退役しオハイオ州のアメリカ空軍博物館に展示されることとなった。度重なる改良で得られたデータはその後の様々な新型機の開発に役立てられている。
スーパーファントム・プロジェクト
1983年にボーイング社は比較的酷使されていないF-4に、当時の最新技術を投入し改修する「F-4改修計画」 (別名:スーパーファントム計画) を発表した。
当時、2,700機近くが運用されていたF-4は21世紀目前の2000年においても2,000機近くが飛行可能な状態であるとの予測が立てられていた。また、21世紀の航空機の戦闘は早期警戒管制機とのデータリンクや撃ちっ放し能力を有する空対空ミサイルの実戦化[11]など、F-4の開発された時代では想定されていない技術が前提となるとされた。この予測を基に計画されたのがこの「F-4改修計画」であり、主にレーダーなどのアビオニクス及びエンジンの換装、コンフォーマルタンクの追加が計画された。
レーダー類はF-16に搭載されているウエスチングハウス社製「APG-66」へ換装してルッグダウン能力 (低高度目標の補足能力) とシュートダウン能力 (低高度目標の撃墜能力) 向上を図った。それに合わせコックピットの計器類もHUDなどF-16のものを使用することとした。エンジンはF-15やF-16が搭載するF100を改良した PW1120 へ換装するとした。このエンジンはJ79に比べ25%近く軽量で推力は20%増し、燃料消費率も5%から15%低いとされた。胴体下面に搭載するコンフォーマルタンクは4,164?の燃料を追加搭載できるとした。
この計画には当時200機近いF-4を保有していたイスラエルや約260機を保有していた西ドイツが興味を示したとされている。ただし、両国ともこのボーイング社案をそのまま使用してはいない。イスラエルはエンジンこそ PW1120 を搭載するもののHUDを含むアビオニクス類は国産品を搭載する独自の計画を立案した。西ドイツは本計画に対抗する形で製造元のマクドネル社が発表した計画[12]を基にした「ICE (Improved Combat Efficiency:戦闘効率改善) 計画」を立案した。
標的機としての運用
アメリカ海軍は初期に生産され老朽化したF-4Bを標的機へ改造する計画を立案しペンシルバニア州ウォーミンスターにあるNADC (海軍航空開発センター) で標的機への改造研究と設計を実施した。同センターは空対空・地対空ミサイルの試験や濃密な対空防御を有する地域への電波妨害による模擬侵入を可能とするRPV (遠隔操作機) の研究を行っていた。
※無人航空機・オートパイロットも参照のこと。
NADCは老朽化したF-4B一機を入手し、操縦系統をすべて無線を経由して操作するように改造した。完成した無人標的機は「QF-4B」と名付けられ、視認性を良くするために真っ赤に塗装されたが機首にアンテナが二本増えている他は外見的な違いはなかった。コックピット内の操縦装置は人間による操作を可能としたままで全操縦系統を無線操作で作動させるためのトグル・スイッチを多数追加している。これは駐機場と滑走路間の往復と滑走路と空中の往復間の操縦という別種の操作を地上のパイロットと空中の誘導母機「DF-4J」 (別名フォックス:F-4Bの改造機) から遠隔操作を行うパイロットで分担することで改造内容や遠隔操作手順を単純なものとすることを意図したものである。
QF-4Bの操作は機上コマンドコントロール受信機で受信する406MHz?550MHzの帯域中の20チャンネルの信号を使用する。20チャンネルの信号はブレーキのオン・オフ、降着装置の上下、上昇降下、推力の上昇下降、フラップ・方向舵・エアブレーキの作動、搭載物の投棄、アフターバーナーの点火と停止、拘束フックの上下、ドラッグシュートの作動、記録カメラの作動など、飛行に必要な役割にそれぞれ割り付けられる。
アメリカ海軍は原型機を含めた44機のF-4BをQF-4Bに改造し標的機としてミサイル実験部隊で運用した。以降、老朽化・余剰となったF-4E/N/S/Gも無人標的機に改修され、それぞれ「QF-4E」「QF-4N」「QF-4S」「QF-4G」としてミサイルの実標的して撃墜・消耗している。

記録への挑戦
F-4が初飛行した1950年代はアメリカとソビエトの最新鋭機を使用した熾烈な世界記録更新競争の時代でもあった。また、アメリカ空軍と海軍も記録の更新競争を行う形となっていた。

トップ・フライト
1959年7月14日にソビエトはSu-15の原型と言われる当時最新鋭の実験機Tu-431により28,852mの上昇記録を記録した。これに対してアメリカ海軍は「トップ・フライト計画」として原型機の「XF4H-1」による高度記録更新を行った。同年12月6日、エドワーズ空軍基地を離陸したローレンス・E・フリント中佐操縦のXF4H-1は高度30,040mまで上昇記録を更新した。
なお、その一週間後の12月14日にはアメリカ空軍のF-104CがJ・B・ジョーダン空軍大尉の操縦により高度31,513m (103,389ft) の高度記録を更新した。これは、初めて10万フィートを突破した記録ともなった。
LANA[13]計画
アメリカ海軍航空50周年に当たる1961年を記念してアメリカ大陸横断飛行の速度記録に挑戦した。
アメリカ海軍は当時最新の「F4H-1」つまりF-4の原型機を5機 (予備機2機) 用意した。横断計画はカリフォルニア州ロサンゼルスのオンタリオ・フィールド飛行場からニューヨーク州ロングアイランドのフロイド・ベネット飛行場まで無着陸飛行を行うものとされた。
飛行士として後にジェミニ11号で宇宙飛行を経験し、アポロ12号に乗り込み月面「嵐の大洋」に降り立ったリチャード・F・ゴードンJr中尉 (当時) を含む計6名のパイロットが抜擢された。1番機には指揮をとるJ・S・ラモール中佐とT・J・ジャクソン大尉の二名、3番機にゴートン中尉とB・R・ヤング中尉が搭乗した。
5月24日、5機のF-4がオンタリオ・フィールド飛行場を時間を隔てて飛び立った。1番機・2番機・3番機にトラブルがないことを確認した予備の2機はすぐに引き返している。3機はそれぞれ単独飛行を行いニューメキシコ州・ミズーリ州・オハイオ州の上空で空中給油を受けニューヨークを目指した。
最初にフロイド・ベネット飛行場の上空を通過したのは1番機で離陸より3時間と5分が経過していた。続いて到着したのは2番機で所要時間は2時間50分だった。最後に到着した3番機は2時間47分を記録し、最短記録を残したゴートン・ヤング両中尉がベンデックス・トロフィーを受賞した。
セージバーナー
1961年8月28日、3マイル (4.82 km) の区間内で 125 ft (40 m) 以下の高度を維持してマッハ1を超える平均 902.769 mph (1,452.826 km/h)の速度記録を樹立した。残念ながらこれに先立つ5月18日の最初の試行でピッチダンパーの故障による空中分解でパイロットのJ.L.フェルトマン海軍中佐が殉職している。
スカイバーナー
1961年12月22日、水噴射装置を追加したF-4により1,606.342 mph (2,585.086 km/h) の絶対世界記録速度を記録している。その直前の12月5日には同計画の別の機体が 66,443.8 ft (20,252.1 m) での水平飛行高度を記録している。
ハイジャンプ
1962年、アメリカ海軍はF-4の上昇性能を誇示する目的で「ハイジャンプ計画」に着手する。これは指定された高度までの上昇時間を競うもので「トップ・フライト」と異なり、到達時間を競うものである。基地にはメーン州ブランズウィックとカリフォルニア州ポイント・マグーが選ばれた。
本計画では、後にジェミニ10号で宇宙飛行を経験後、アポロ16号で月面の「デカルト高地」に着陸し、1981年のスペースシャトルの第一回目と九回目の飛行の船長に選ばれることになるジョン・W・ヤング中佐 (当時) 、D・M・ロントン少佐、D・W・ノードバーグ少佐、F・T・ブラウン少佐、海兵隊のW・C・マクグロー中佐の5名がそれぞれの高度の記録を更新した。
詳細は以下の通りである。
パイロット 到達高度 時間 記録日
ジョン・W・ヤング中佐 3,000m 43.52秒 2月21日
25,000m 230.4秒 3月31日
D・M・ロントン少佐 6,000m 48.79秒 2月21日
D・W・ノードバーグ少佐 15,000m 114.54秒 3月1日
30,000m 371.34秒
F・T・ブラウン少佐 20,000m 178.5秒 3月31日
W・C・マクグロー中佐 9,000m 61.62秒 3月1日

この時、ヤング中佐はマニュアルを無視してフラップを上げたまま推力100%で離陸し、車輪が滑走路を離れると同時に車輪を引き上げ、そのまま加速し十分な速度に達してから機首を引き揚げるという操縦を行った。教本にはない手順だったが、後の上昇記録更新でも踏襲されるようになった。これによりヤング中佐は腕のいいテストパイロットとして知られるようにもなり、同年9月に第二次宇宙飛行士選抜に名を挙げられている。
なお、本計画の記録は1973年にソ連 (当時) のMiG-25の特殊改造機「E266」が20,000mから30,000mまでの記録を更新することになるが、アメリカ空軍のストリーク・イーグル計画によってF-15が破るまで、その記録を更新されることはなかった。

マクドネル社の躍進
マクドネル社は1964年会計年度の総売り上げは865,000,000ドルの七割を国防省関係からの受注で占めていた。前年度比で300,000,000ドル増を記録しており、アメリカの経済雑誌「フォーチュン」は1964年11月号で当時のマクドネル社の活況振りを6ページに渡り紹介した。

軍用機生産に限れば売り上げの245,000,000ドルの大部分がF-4によるものだった。翌年の1965年にはF-4の年間生産数は500機を突破することが既に決まっていた。マクドネル社の敷地面積は50万m?を越え従業員数は3万5千人となった。また、10社を越すアメリカ国内の有力航空宇宙メーカーを押えてマーキュリー計画の宇宙カプセル開発と生産をNASAから受注している。1939年に15人の従業員とビル2階の間借りでの創設当初から見ると空前の成長だったことが分かる。

だが、創設者であるジェームス・スミス・マクドネルJrはA3HとA4Hの空白期の経験などから浮き沈みの激しい国防省からの受注に頼っていては心細いと考え、軍事専門の航空機メーカーからの脱却と規模拡大を図り、ベトナム戦争により軍事物資生産に優先された資材の入手難と旅客機受注の伸び悩みにより経営難にあったダグラス社の吸収合併を1968年に行った。以降マクドネル・ダグラス社となり、ダグラス社の旅客機の製造と共にA-4 スカイホークの生産を引き継ぐこととなった。

マクドネル・ダグラス社は軍民両部門の航空機メーカーとして成長を続け1985年にはヒューズ・ヘリコプター社をも傘下に入れるに至った。