1963年にF-4Bが艦隊配備を開始されて実戦配備下にあった10年間に度重なる改良が施され、その間、前縁スラットの追加や受信アンテナの整備、ベトナム戦争中の機関砲の搭載や搭載兵器の追加などが行われた。 ※それぞれの型の詳細については、下記の形式一覧を参照のこと
初めての大規模改修が1973年の近代化改修と寿命延長である。ベトナム戦争を経たF-4Bの残存649機の中の飛行時間が短くまた激しい空中戦に参加していない148機に対して「F-4J」に準じた能力[10]とする改修を行い「F-4N」と改称した。海兵隊のF-4BもF-4Nに改修されている。
アメリカ空軍のF-4Dの一部もLORAN航法装置 (自機の位置を把握するための装置) の受信アンテナを追加された。また、固定武装として機関砲を搭載したF-4Eも海軍のF-4に装備していた前縁フラップや電子光学望遠鏡、TISEO兼用レーダースコープを追加された。
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1967年より生産された522機のF-4Jの内260機も1978年から1987年までに一機当たり180から190万ドルの費用を投じて行われた J79-GE-10B 無煙型エンジンへの換装と前縁スラットの追加による延命改修により「F-4S」となった。
62-12200号機
フライ・バイ・ワイヤを装備する62-12200号機
飛行中の62-12200号機
カナード翼を搭載しているのが分かる5,000機近く生産されたF-4の中でも特にその姿を幾度も変えたのが62-12200号機だった。元々はアメリカ海軍向けF-4Bの一機として生産された機体だが後にアメリカ空軍からの発注を受けてF-4C型にして納入された後、機首部分に偵察カメラや機材が積まれて戦術偵察型RF-4Cの原型機となった。
RF-4C原型機は試験終了後に今度はF-4Eの原型機として使用された。この改修ではカメラ搭載スペースに機関砲を搭載しレーダーを小型のものに変更している。F-4Eの原型機テストの終了時には62-12200号機をF-4Cに戻して実働部隊へ復帰させることは不可能となったため、「ボロン」「ベリリウム」などの新素材の検証や耐性強度テストなどに転用された。
更に同機は「アジル・イーグル計画」にも使用され、戦闘機の空戦時の運動能力向上のための前縁スラットを取り付けられた。アジル・イーグル計画の終了後は当時実験段階だった「フライ・バイ・ワイヤ」のテスト機として改修を受けている。この時エアインテーク部分にカナード翼が取り付けられた。
62-12200号機は1979年1月に退役しオハイオ州のアメリカ空軍博物館に展示されることとなった。度重なる改良で得られたデータはその後の様々な新型機の開発に役立てられている。
スーパーファントム・プロジェクト
1983年にボーイング社は比較的酷使されていないF-4に、当時の最新技術を投入し改修する「F-4改修計画」 (別名:スーパーファントム計画) を発表した。
当時、2,700機近くが運用されていたF-4は21世紀目前の2000年においても2,000機近くが飛行可能な状態であるとの予測が立てられていた。また、21世紀の航空機の戦闘は早期警戒管制機とのデータリンクや撃ちっ放し能力を有する空対空ミサイルの実戦化[11]など、F-4の開発された時代では想定されていない技術が前提となるとされた。この予測を基に計画されたのがこの「F-4改修計画」であり、主にレーダーなどのアビオニクス及びエンジンの換装、コンフォーマルタンクの追加が計画された。
レーダー類はF-16に搭載されているウエスチングハウス社製「APG-66」へ換装してルッグダウン能力 (低高度目標の補足能力) とシュートダウン能力 (低高度目標の撃墜能力) 向上を図った。それに合わせコックピットの計器類もHUDなどF-16のものを使用することとした。エンジンはF-15やF-16が搭載するF100を改良した PW1120 へ換装するとした。このエンジンはJ79に比べ25%近く軽量で推力は20%増し、燃料消費率も5%から15%低いとされた。胴体下面に搭載するコンフォーマルタンクは4,164?の燃料を追加搭載できるとした。
この計画には当時200機近いF-4を保有していたイスラエルや約260機を保有していた西ドイツが興味を示したとされている。ただし、両国ともこのボーイング社案をそのまま使用してはいない。イスラエルはエンジンこそ PW1120 を搭載するもののHUDを含むアビオニクス類は国産品を搭載する独自の計画を立案した。西ドイツは本計画に対抗する形で製造元のマクドネル社が発表した計画[12]を基にした「ICE (Improved Combat Efficiency:戦闘効率改善) 計画」を立案した。
標的機としての運用
アメリカ海軍は初期に生産され老朽化したF-4Bを標的機へ改造する計画を立案しペンシルバニア州ウォーミンスターにあるNADC (海軍航空開発センター) で標的機への改造研究と設計を実施した。同センターは空対空・地対空ミサイルの試験や濃密な対空防御を有する地域への電波妨害による模擬侵入を可能とするRPV (遠隔操作機) の研究を行っていた。
※無人航空機・オートパイロットも参照のこと。
NADCは老朽化したF-4B一機を入手し、操縦系統をすべて無線を経由して操作するように改造した。完成した無人標的機は「QF-4B」と名付けられ、視認性を良くするために真っ赤に塗装されたが機首にアンテナが二本増えている他は外見的な違いはなかった。コックピット内の操縦装置は人間による操作を可能としたままで全操縦系統を無線操作で作動させるためのトグル・スイッチを多数追加している。これは駐機場と滑走路間の往復と滑走路と空中の往復間の操縦という別種の操作を地上のパイロットと空中の誘導母機「DF-4J」 (別名フォックス:F-4Bの改造機) から遠隔操作を行うパイロットで分担することで改造内容や遠隔操作手順を単純なものとすることを意図したものである。
QF-4Bの操作は機上コマンドコントロール受信機で受信する406MHz?550MHzの帯域中の20チャンネルの信号を使用する。20チャンネルの信号はブレーキのオン・オフ、降着装置の上下、上昇降下、推力の上昇下降、フラップ・方向舵・エアブレーキの作動、搭載物の投棄、アフターバーナーの点火と停止、拘束フックの上下、ドラッグシュートの作動、記録カメラの作動など、飛行に必要な役割にそれぞれ割り付けられる。
アメリカ海軍は原型機を含めた44機のF-4BをQF-4Bに改造し標的機としてミサイル実験部隊で運用した。以降、老朽化・余剰となったF-4E/N/S/Gも無人標的機に改修され、それぞれ「QF-4E」「QF-4N」「QF-4S」「QF-4G」としてミサイルの実標的して撃墜・消耗している。
記録への挑戦
F-4が初飛行した1950年代はアメリカとソビエトの最新鋭機を使用した熾烈な世界記録更新競争の時代でもあった。また、アメリカ空軍と海軍も記録の更新競争を行う形となっていた。
トップ・フライト
1959年7月14日にソビエトはSu-15の原型と言われる当時最新鋭の実験機Tu-431により28,852mの上昇記録を記録した。これに対してアメリカ海軍は「トップ・フライト計画」として原型機の「XF4H-1」による高度記録更新を行った。同年12月6日、エドワーズ空軍基地を離陸したローレンス・E・フリント中佐操縦のXF4H-1は高度30,040mまで上昇記録を更新した。
なお、その一週間後の12月14日にはアメリカ空軍のF-104CがJ・B・ジョーダン空軍大尉の操縦により高度31,513m (103,389ft) の高度記録を更新した。これは、初めて10万フィートを突破した記録ともなった。
LANA[13]計画
アメリカ海軍航空50周年に当たる1961年を記念してアメリカ大陸横断飛行の速度記録に挑戦した。
アメリカ海軍は当時最新の「F4H-1」つまりF-4の原型機を5機 (予備機2機) 用意した。横断計画はカリフォルニア州ロサンゼルスのオンタリオ・フィールド飛行場からニューヨーク州ロングアイランドのフロイド・ベネット飛行場まで無着陸飛行を行うものとされた。
飛行士として後にジェミニ11号で宇宙飛行を経験し、アポロ12号に乗り込み月面「嵐の大洋」に降り立ったリチャード・F・ゴードンJr中尉 (当時) を含む計6名のパイロットが抜擢された。1番機には指揮をとるJ・S・ラモール中佐とT・J・ジャクソン大尉の二名、3番機にゴートン中尉とB・R・ヤング中尉が搭乗した。
5月24日、5機のF-4がオンタリオ・フィールド飛行場を時間を隔てて飛び立った。1番機・2番機・3番機にトラブルがないことを確認した予備の2機はすぐに引き返している。3機はそれぞれ単独飛行を行いニューメキシコ州・ミズーリ州・オハイオ州の上空で空中給油を受けニューヨークを目指した。
最初にフロイド・ベネット飛行場の上空を通過したのは1番機で離陸より3時間と5分が経過していた。続いて到着したのは2番機で所要時間は2時間50分だった。最後に到着した3番機は2時間47分を記録し、最短記録を残したゴートン・ヤング両中尉がベンデックス・トロフィーを受賞した。
セージバーナー
1961年8月28日、3マイル (4.82 km) の区間内で 125 ft (40 m) 以下の高度を維持してマッハ1を超える平均 902.769 mph (1,452.826 km/h)の速度記録を樹立した。残念ながらこれに先立つ5月18日の最初の試行でピッチダンパーの故障による空中分解でパイロットのJ.L.フェルトマン海軍中佐が殉職している。
スカイバーナー
1961年12月22日、水噴射装置を追加したF-4により1,606.342 mph (2,585.086 km/h) の絶対世界記録速度を記録している。その直前の12月5日には同計画の別の機体が 66,443.8 ft (20,252.1 m) での水平飛行高度を記録している。
ハイジャンプ
1962年、アメリカ海軍はF-4の上昇性能を誇示する目的で「ハイジャンプ計画」に着手する。これは指定された高度までの上昇時間を競うもので「トップ・フライト」と異なり、到達時間を競うものである。基地にはメーン州ブランズウィックとカリフォルニア州ポイント・マグーが選ばれた。
本計画では、後にジェミニ10号で宇宙飛行を経験後、アポロ16号で月面の「デカルト高地」に着陸し、1981年のスペースシャトルの第一回目と九回目の飛行の船長に選ばれることになるジョン・W・ヤング中佐 (当時) 、D・M・ロントン少佐、D・W・ノードバーグ少佐、F・T・ブラウン少佐、海兵隊のW・C・マクグロー中佐の5名がそれぞれの高度の記録を更新した。
詳細は以下の通りである。
パイロット 到達高度 時間 記録日
ジョン・W・ヤング中佐 3,000m 43.52秒 2月21日
25,000m 230.4秒 3月31日
D・M・ロントン少佐 6,000m 48.79秒 2月21日
D・W・ノードバーグ少佐 15,000m 114.54秒 3月1日
30,000m 371.34秒
F・T・ブラウン少佐 20,000m 178.5秒 3月31日
W・C・マクグロー中佐 9,000m 61.62秒 3月1日
この時、ヤング中佐はマニュアルを無視してフラップを上げたまま推力100%で離陸し、車輪が滑走路を離れると同時に車輪を引き上げ、そのまま加速し十分な速度に達してから機首を引き揚げるという操縦を行った。教本にはない手順だったが、後の上昇記録更新でも踏襲されるようになった。これによりヤング中佐は腕のいいテストパイロットとして知られるようにもなり、同年9月に第二次宇宙飛行士選抜に名を挙げられている。
なお、本計画の記録は1973年にソ連 (当時) のMiG-25の特殊改造機「E266」が20,000mから30,000mまでの記録を更新することになるが、アメリカ空軍のストリーク・イーグル計画によってF-15が破るまで、その記録を更新されることはなかった。
マクドネル社の躍進
マクドネル社は1964年会計年度の総売り上げは865,000,000ドルの七割を国防省関係からの受注で占めていた。前年度比で300,000,000ドル増を記録しており、アメリカの経済雑誌「フォーチュン」は1964年11月号で当時のマクドネル社の活況振りを6ページに渡り紹介した。
軍用機生産に限れば売り上げの245,000,000ドルの大部分がF-4によるものだった。翌年の1965年にはF-4の年間生産数は500機を突破することが既に決まっていた。マクドネル社の敷地面積は50万m?を越え従業員数は3万5千人となった。また、10社を越すアメリカ国内の有力航空宇宙メーカーを押えてマーキュリー計画の宇宙カプセル開発と生産をNASAから受注している。1939年に15人の従業員とビル2階の間借りでの創設当初から見ると空前の成長だったことが分かる。
だが、創設者であるジェームス・スミス・マクドネルJrはA3HとA4Hの空白期の経験などから浮き沈みの激しい国防省からの受注に頼っていては心細いと考え、軍事専門の航空機メーカーからの脱却と規模拡大を図り、ベトナム戦争により軍事物資生産に優先された資材の入手難と旅客機受注の伸び悩みにより経営難にあったダグラス社の吸収合併を1968年に行った。以降マクドネル・ダグラス社となり、ダグラス社の旅客機の製造と共にA-4 スカイホークの生産を引き継ぐこととなった。
マクドネル・ダグラス社は軍民両部門の航空機メーカーとして成長を続け1985年にはヒューズ・ヘリコプター社をも傘下に入れるに至った。